自分の人生を生きるとは、どういうことなのか

誰かが敷いたレールの外側で、私はずっと「このままでいいのか」と問い続けてきた。

安定した生活をするために、大きな会社に就職して、定年まで勤めるんだよ。そのためには、いい大学に行かないといけないんだよ。だから、たくさん勉強しないといけないんだよ。

私が小さい頃、「何で勉強しないといけないの?」と親に聞いたとき、返ってきたのは、こんな言葉だった。これが、「誰かが敷いたレール」だと私は思っている。

まだ小さかった私は、漠然と、そのレールに乗っている自分を想像できなかった。そして、実際、そのレールに乗ることはなかった。43歳になった今に至るまで、私はそのレールを外から傍観してきたようだ。

外から傍観している自分を、一番最初に自覚したのは、中学三年のときだったと思う。

「内申点をもらうために、先生におべっかを使っているんだろう」などと言っていた奴らも、三年生になると、自分の内申点を良くするために、一生懸命になる。私はそれを悪いことだと思ってはいなかったが、そんな豹変した奴らも含めて、一生懸命に授業で発言をして、先生に言われた通りに提出物を提出する同級生たちを、まるで対岸の火事であるかのように、少し離れた場所から見ている感覚だった。

レールの外側にいると、世間から白い目で見られるようだ。

高校生になると、将来、何になりたいかを「現実的に」考え始める。

私が高校生の頃に考えたことは、自分が好きなことを仕事にする、ということだった。

お金を稼げていれば、まともな生活を送れる。両親が心配することもないだろうし、将来、家族ができても養うことができる。それでいて、自分は好きなことを続けられる。

私はこの案を、名案だと、43歳になった今でも思っている。

だが、世間一般は、どうもそうではないようだ。

「好きなことをして飯を食っていけるほど、世の中は甘くはない」「社会を舐めるな」「理想ばかり語っていないで、現実的になりなさい」

そんな言葉を向けられることがあった。

高校卒業後、私はアメリカの大学に進学することになり、渡米した。

私はここで初めて、「対外的」に見て「レール」から外れたのだと思う。そしてこれ以降、「対外的」に見ても、その「レール」に乗ることはなかった。

私はいわゆる「就活」というのをしたことがない。正社員になったこともない。大学卒業後、無職の期間が何回かあり、会社を立ち上げて代表をやっていたこともあったが、見事に潰してしまった。このとき、私は37歳になっていた。

翌年、私は正社員採用の求人に応募してみたが、正社員経験の無い、無職期間が何回かある、私の履歴書や職務経歴書を見るや否や、「何だこれは。今まで何をやってきたんだ。大学まで出してもらって、両親に悪いと思わないのか」などと言われ、1時間ほど説教をされた。

このとき、私は、怒りや悲しみといった、否定的な感情を覚えなかった。むしろ、こうした否定的な感情に振り回されない自分を、誇りにさえ思った。

私のこれまでの人生は、私から見ても完璧ではない。それどころか、失敗ばかりの穴だらけだ。もっとこうすれば良かった、ああすれば良かった、今だったらこうするのに、などと後から振り返ることも少なくない。

それでも、私は後悔をしていない。なぜなら、ここに至るまでの道を、自分で決めてきたからだ。人生の岐路に立つたびに、その時その時のベストであると思う選択を、自ら考え、自ら選択してきたからだ。

自分の進む道を、自ら考え、自ら選択すること。これこそが、自分の人生を生きる、ということではないかと、私は思っている。

そして、自分の選択が、みんなと同じかどうか、「レール」に乗っているかどうか、周りからどう思われるのだろうか、白い目で見られはしないか、そうした問いよりも、それが自分にとって良いことなのか。みんなにとっても良いことなのか。本当に、それで良いのか。そう問い続けることのほうが、私にとっては、ずっと腑に落ちていた。

なぜなら、それこそが「自由」に生きるということだと、今の私は考えているからだ。

私は「レール」に乗れなかった。それゆえに、世間から白い目で見られていると感じることも、これまでに何度もあった。けれど、それが理由で「このままでいいのか」と問い続けてきたわけではない。

自分の人生を「自由」に生きるために、自分が選んできた道が、本当に良かったのかどうか。「このままでいいのか」を、私は今も問い続けている。

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