「当たり前」を疑うことが「自由」の入口

言葉は見えない刃物だ。

刃物は正しい使い方をすれば、便利な道具だ。だが、誤った使い方をすれば凶器になる。言葉も同様だ。見えないという点を除いて。

ナイフで人が刺されたら、ナイフで刺された人から血が出るだろう。刺された人は、誰がどう見ても、少なくとも重傷を負っていることが分かるし、ナイフで人を刺した人は、社会的に裁かれることになるだろう。

では、人に暴言を吐いたり、罵倒を浴びせたりした場合はどうだろう。暴言を吐かれたり、罵倒を浴びせられたりした人から血が出るだろうか。

暴言を吐かれたり、罵倒を浴びせられたりしても、血が出ないどころか、見た目上、平気でいるように見える人もいる。本当に平気なのだろうか。

見えないというだけで、本当は心に傷を負い、出血しているのではないか。

ナイフの場合、ナイフで人を刺した人は、自分が相手を傷つけたことを自覚しているはずだ。自分が行った行為によって、相手を傷つけたことは、目で見て明確に分かるからだ。

言葉の場合はどうだろう。自分が発した言葉によって、相手が傷ついているかどうかは、目で見ただけでは分からない場合が多い。だから、言葉で相手を攻撃した人は、自分が相手を傷つけたことを自覚していないことが多い。

それどころか、自分が正しいと思って発していることさえもある。ここに問題がある。

例えば、あなたが会社勤めの会社員であるとする。仕事でミスをして、上司から「なんでこんなミスをしたんだ」と強く叱責されたとする。この場合、ミスをしたのはあなただから、悪いのはあなたで、上司から強く叱責されても仕方がないのだろうか。

ミスをしない人はいない。大事なことは、次に同じミスをしないことだ。それだけだ。

ミスをした本人はショックを受けており、充分に反省している。次に向けて立ち上がろうとしているときに、強く叱責することは、底なしの沼から這い上がろうとしている人を、もう一度沼に押し込むことと同じではないか。

「上司がミスをした部下を叱責することは当然だ」は正しいのか。「正しい」と思っている方、「正しいと思うこと」=「正しいこと」だろうか。街中で100人に聞いたら、「正しい」と答えた人が多数派だったとしよう。「みんなが正しいと思っていること」=「誰にとっても正しいこと」だろうか。

正しいと思ってやったことが実は間違いだったということは、誰にでもある経験だと思う。だから、「正しいと思うこと」=「正しいこと」とは限らない。

数学の難しい問題は、正解を書く人は少数だ。だからといって、「じゃあ、みんなが書いた答えを正解にしよう」とはならない。「みんなが正しいと思うこと」=「誰にとっても正しいこと」とは限らない。

上司がミスをした部下を叱責することは、「当たり前」のことだ、と思った瞬間、人は「考える」ことをやめてしまう。「当たり前」のことを「当たり前」だと思って、「考える」ことをしないと、人は、「正しくない」ことを「正しいこと」だと思ってしまうことがある。

「当たり前」を疑うことは、「正しいこと」、特に、「誰にとっても正しいこと」を「考える」入口だ。つまり、「自由」への扉なのだ。

もし、あることが「当たり前」だと、自分が今、所属している場所で、自分以外のみんなが思っていたとしても、その「当たり前」のことを疑ってみよう。たとえ、その場にいるみんなから白い目で見られたとしても、扉の向こうであなたを待っている人がいるはずだから。

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