「自由」を問い続けること

「自由だー!」

と全身で叫びたくなることが、過去に何度もあった。

それほど私は、不自由さを感じていたのだろう。

形式的には自由であるはずなのに。

「自由」って何だろう。

「自由」とは、自分がやりたいことをやることなのか。

もしそうだとして、自分がやりたいことをやっているはずなのに、不自由さを感じているのはなぜだろう。

自分が今、やりたいと思ってやっていることは、本当に、自分がやりたいことなのだろうか。

実は、自分がそう思い込んでいるだけで、本当は、周りの人と違うことをして注目されたいとか、個性的だと思われたいとか、名誉や名声に預かりたいから、そうしているだけなのではないか。

これらは全て、他者からの評価を得たい、つまり、外側の価値観を満たしたいということになるのではないか。

価値観は人によって異なる。

その中で、自分ではない他者の価値観を満たすことを「自分のやりたいこと」だと思い込んでいるとしたら、不自由さを感じることは十分にあり得るだろう。

なぜなら、それが自分のやりたいことかどうかという判断を、他人に委ねてしまっているからだ。

自由であるはずの私が、過去に不自由さを感じていたのは、おそらくこれが原因だろう。

「自由」って何だろう。

「自由」とは、自分がやりたいことを、自分の判断で決められることなのではないか。

ところで、「自由」だからといって、何をしても良いのだろうか。

特に、人様に迷惑を掛けるようなことをしても良いのだろうか。

例えば、自分では良かれと思ってやったことが、実は相手にとっては悪いことだった場合。

このとき、申し訳なさや後悔、自己否定に苛まれることがある。

果たして、これは「自由」と呼べるのだろうか。

このような状況は、その時点で、それが悪いことだと判断できなかったということでもある。

もし仮に、自分で物事の良し悪しを完全に判断できるとしたら、

「自分のやりたいこと」と「良いこと」は一致するはずだ。

そして、良いことをしたとき、人は自然と満たされた感覚を覚える。

この意味で、良いことだけを選べる状態こそが、「自由」であると言えるのかもしれない。

つまり、極限的に言えば、「自由」とは、自分で物事の良し悪しを正しく判断できることなのではないか。

しかし、完璧な人間はこの世に存在しない。

私たちは常に正しく判断できるわけではない。

だからこそ私は、自分のやっていることが本当に良いのか、誰かを傷つけていないかを問い続ける。

それ自体が、私にとって「自由」を問い続けるということなのだ。

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