「良いこと」って何だろう?
と聞かれると、多くの人が、まず具体的な事柄を思い浮かべ、それを指し示すかもしれない。
「電車の中でお年寄りに席を譲ること」とか、「道を聞かれたときに案内してあげること」など。
これらは、多くの人が「良いこと」とみなすだろう。
では、「良いこと」とは、誰かのためになることなのだろうか。
雨が降っているときに、傘のない人に自分の傘を差し出す。
しかし、その結果、自分はずぶ濡れになり、風邪を引くかもしれない。
これは「良いこと」なのだろうか。
仮に、その人のためになれば、自分がどうなっても構わないと考えたとする。しかし、実際に風邪を引いて会社を休めば、同僚が仕事を引き受けることになる。
このとき、その行為は「良いこと」だったと言えるのだろうか。
──あるいは、そもそも別の問いが必要なのかもしれない。
そのときあなたは、なぜ傘を差し出そうと思ったのか。
相手が美人だったからなのか。
もしそうだとすれば、あなたはその行為に、何かを期待してはいなかっただろうか。
たとえば、後日、傘を返すという名目で連絡先を聞かれることを。
では、もし相手が美人ではなかったとしたら、あなたは同じように傘を差し出しただろうか。
そのときの判断基準は、自分にとって何かしらの見返りがあるかどうかになってはいないか。
話を戻そう。
傘を差し出すという行為は「良いこと」なのだろうか。
おそらく、多くの人はそう答えるだろう。
しかし、その動機が、
自分にとっての見返りを期待したものだったとしたら、それでもなお、その行為は「良いこと」と言えるのだろうか。
外に現れた行為によって「良いこと」かどうかを判断するのではなく、
その内にあるものによって判断すべきなのかもしれない。
しかし、その内にあるものは、他者には見えない。
では、「良いこと」かどうかは、誰が判断するのだろうか。
「良いこと」って何だろう?
わたしは、それが具体的な事柄を指して決まるものではなく、
良いかどうかを判断しようとする、その態度にあるのではないかと考える。
自分がなぜそうしようとしたのか。自分がしようとしていることが、本当に良いことなのかどうか。
それを問い続ける姿勢。
これこそが、「良いこと」の根源ではないか。
「良いこと」って何だろう?
誰かが「良いこと」と言ったことは、本当に「良いこと」なのだろうか。自分自身に問うてみよう。
答えはすぐに見つからないかもしれないが、問い続けてみよう。
「良いこと」かどうかを判断するのは、他人ではなく、自分なのだから。
