「当たり前」は「ありがとう」の積み重ね

私は「ありがとう」という言葉が好きだ。

幼い頃、「誰かに何かをしてもらったら、『ありがとう』って言うんだよ」と、親や幼稚園の先生から教わった。

でも、私が「ありがとう」を自然に言えるようになったのは、30歳を過ぎてからだった。

コンビニで買い物をして、会計が済んだときなど、「こんなこと」で「ありがとう」なんて言っていいのかな、変かな、迷惑かな、と思っていた。

30歳のとき、知人から、佐藤富雄氏の『あなたが変わる「口ぐせ」の魔術』という本を読んでみるよう薦められた。

この本を読んで、「こんなこと」と思うようなことに対しても、「ありがとう」と言っていいんだ、と思えるようになった。

そして、「小さな」感謝を探すようになった。

例えば、朝、目覚めたときにお日様が出ていると、気持ちの良い朝を迎えられる。

この「気持ちの良い朝を迎えられる」ことは、毎日、当たり前のようにやってくるものだと思われるかもしれない。

だが、果たして、毎日、気持ち良く朝を迎えられることは、本当に当たり前のようにやってくるのだろうか。

私は当時、父親を病気で亡くしたばかりだった。

父親は、医師から余命を宣告されていた。

ひょっとしたら、父親にとって「明日が来る」ことは、当たり前ではなかったのかもしれない。

私には、「明日」というものが、毎日、当たり前のようにやってくる。

だが、実は、私を含めて、どんな人にとっても、「明日」がやってくることは、100%保証されていない。

そのように考えると、「気持ちの良い朝を迎えられる」ことは、決して「当たり前」なことではなく、大変「有り難い」ことなのだと、強く感じられる。

さて、今、自分の目の前で、当たり前のように起きていることは、本当に当たり前のことだろうか。

例えば、あなたは今、この文章を読んでいる。

「文章を読むことができる」ということは、少なくとも、読むことを学ぶ機会があった、ということだ。

生まれた国や環境が違えば、その機会は、最初から与えられなかったかもしれない。

戦争が続いていたり、学校という場所そのものが存在しなかったり、学校があっても通うことができなかったりする場合もある。

学校に通うことができたとしても、先生がいなかったり、十分な授業を受けられなかったりすることもある。

たとえ授業を受けることができたとしても、復習する時間がなく、学んだことを身につける余裕がない場合もある。

そう考えると、「当たり前」と思っていることは、実は、数えきれないほどの「有り難い」ことの積み重ねの上に成り立っているのだと、感じられる。

「ありがとう」という言葉は、この「有り難い」ことに対する感謝の気持ちだ。

私は、感謝の気持ちを、常に持っていられるような人間でありたいと思う。

タイトルとURLをコピーしました